崖っぷちのきっこさん
しばらく前のブログに、あたしは、「袖すりあうも多生の縁」の「多生」のことを、多い少ないの「多少」だと思い込んでいた‥‥ということを書いたけど、こういうタイプの思い込みって、多くの人が経験してることだと思う。そして、その思い込みの内容も、ものすごく単純なものからハイレベルなものまで、それこそピンキリだと思う。
たとえば、所ジョージさんの場合、「常夏の島」のことをずっと「ココナツの島」だと思い込んでいたそうだけど、これなんて、子どものころに聞き間違えたとしたら、意外と長いこと間違ったまま思い込んでいるパターンだ。何故なら、「常夏の島」も「ココナツの島」も、意味としてはどちらも同じ「南国の島」という意味に取れるからだ。テレビの旅行番組か何かで、「この島は常夏の島なので、1年中いつでもビーチで泳ぐことができます」なんて感じのナレーションが流れたとしても、「ココナツの島」だと思い込んでいる人は、「ココナツの島」のままで文章が成り立ってしまうから、自分の間違いに気づきにくい。
でも、あたしが間違って覚えていた「袖すりあうも多生の縁」のように、意味も違っているケースだと、この言葉を正確に知っている人との会話から、自分の思い込みに気づくことがある。たとえば、「きっこはあの人のことをめっちゃ嫌ってるけど、『袖すりあうも多生の縁』て言葉があるように、前世では恋人同士だった可能性だってあるのよ」なんて言われたら、あたしは「えっ?多少の縁なのに何で恋人同士なのよ?」ということになり、ここから自分の間違いに気づくことになる今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、こうした思い込みの中で、あたしが最も長いこと自分の間違いに気づかなかったのが、「絶望のふち」という言葉だ。この言葉自体を知ったのは、ハッキリとは覚えていないけど、たぶん小学生の時にテレビか何かで耳にしたんだと思うけど、その時には、すでに「崖っぷち」という言葉を知っていたので、あたしの中では、この2つの言葉がゴッチャになってしまったようだ。そして、あたしは、「絶望のふちに立つ」という言葉を、間違った意味で理解してしまったのだ。
だけど、そもそもが「絶望のふち」なんて言葉、日常会話で使うことなんてメッタにないし、大人になってから酔った勢いで女友達に「あたしは絶望のふちに立ってる気分だよ~」なんて言ったことがあるような気がするけど、文脈としてはおかしくないから、その時も間違って理解しているとは思われなかった。だから、あたしはずっと間違った認識のまま年齢を重ね、自分の思い込みに気づいたのは、ナナナナナント!恥ずかしながら30歳を過ぎてからだったのだ。
あたしは、川上弘美さんの小説が大好きで、今でこそほとんどの作品を読んでいるけど、最初に読んだのは、『センセイの鞄』が話題になり、『センセイの鞄』の文庫本(文春文庫)が書店に並んだ2004年、あたしが32歳の時だった。あたしは、この『センセイの鞄』を読んで川上弘美さんの大ファンになり、それから、その時点で書店に並んでいる文庫本を順番に読み始めた。そして、何冊目かに1997年に書き下ろされた『いとしい』(幻冬舎文庫)を読んだ。
『いとしい』は、主人公のマリエが、1歳年上の姉ユリエとの幼いころの不思議な原体験を回想するシーンから始まるんだけど、その中でマリエは、ユリエと遊んだ「お屋敷ごっこ」を思い出す。お屋敷に住んでいる位の高いお猿、大タマ様の息子の小タマ様を姉ユリエが演じ、その小タマ様に見初められた娘猿をマリエが演じるという遊びだ。ユリエ演じる小タマ様は熱心に娘猿のもとへ通って求婚するが、そのたびにマリエ演じる娘猿が首を横に振るので、小タマ様は絶望してしまう。それが、次のシーンだ。
<引用ここから>
「どうしても拙者の愛を受けいれてはくれぬか」という言葉が、お屋敷ごっこの次の段階への合図になる。
「なんとおっしゃられようと」私が答えると、姉はよよと泣き伏すのであった。
「拙者の胸は、はりさけたでござる」姉はひと声悲痛に叫び――悲痛という言葉は姉の好む言葉だった――、叫びながらしばしば「ひつうな」と姉はつぶやいたものだった。姉は悲痛に叫び、ほんとうの涙を流した。
数分の間、姉は涙を流す。それからさらに「ひつうな」声で、
「食べ物は喉を通らぬ、身はやせ細る」と息もたえだえに言うのであった。
絶望の淵にたった小タマ様である姉は、ふたたび回復することがない。
「ぜつぼうのふち」と発音する姉は、ひどく得意そうだった。
「ぜつぼうのふちって、なに」
最初にその言葉を聞いたときに訊ねると、姉はしばらく考えてから、
「ぜつぼうっていう大きな湖みたいなものがあってね、そこの岸はすごく切りたっているの。霧も出てるから、湖に迷いこんだ旅人は誰でも湖に落ちちゃうのね。落ちちゃうそのときって、こわいんだよ、こわいんだから」と激しい顔で説明した。のちに正しく絶望の淵の意味を理解してからも、長い間、絶望とは大きな澄んだ湖のようなものだとうっすら思っていたように思う。絶望の淵は、たしかに、こわい。
小タマ様は、結局絶望の淵に落ちて、姉がその意味を知らぬうちは水に溺れて、意味を知ってからは心痛のあまり食べ物が喉に通らずに餓えて、死ぬことになっていた。
<引用ここまで>
※川上弘美著『いとしい』(幻冬舎文庫)P16~P17より引用
‥‥そんなワケで、「崖っぷち」をすべて漢字で書くと「崖っ縁」、つまり「コップのふち」や「お風呂のふち」のような場所なので、あと一歩か二歩で崖から落ちてしまう危険な状況だけど、まだ崖からは落ちていない。だから、「崖っぷちに立たされる」という言葉は、「もう後がないギリギリの状況」という意味になる。そして、あたしは、「絶望のふち」もコレと同じ「絶望の縁」だと思い込み、あと一歩か二歩で「絶望」という場所に落ちてしまうギリギリの危険な状況という意味だと解釈していたのだ。
それなのに、「絶望の縁」じゃなくて「絶望の淵」だったとは!「淵」というのは、主に河川の流れが緩やかで深くなっているような場所のことで、山奥の絶壁に面したような場所に多い。『釣りキチ三平』の「夜泣谷の怪物」の巻で、三平が巨大な片目の「左膳岩魚(さぜんいわな)」を釣りに行った「鳴神淵(なるがみふち)」も、切り立った岩盤に面した水深の深い場所だった‥‥って、ついつい余計なことまで書いちゃったけど、「絶望のふち」とは、あと一歩か二歩で「絶望」という場所に落ちてしまう「縁」のことじゃなくて、三平の「鳴神淵」や有名な「千鳥ヶ淵」と同じように、「絶望という名の淵」のことだったのだ!
つまり、「絶望の淵に立つ」というのは、あたしが思い込んでいたギリギリの危険な状況なんかじゃなくて、もうすでに最悪の状況に立たされているという意味だったのだ。だから、マリエとユリエの「お屋敷ごっこ」の中で、失恋によって「絶望の淵」に立った小タマ様は、何も食べられなくなり、回復できずに死んでしまったのだ。ちなみに、国語辞典で「崖っぷち」と「絶望のふち」を引いてみると、次のように解説してある。
【崖っ縁(がけっぷち)】
1.崖のふち。
2.限界ぎりぎりにある状況・状態。
「生死の崖っ縁に立つ」
【絶望の淵(ぜつぼうのふち)】
その人にとって悪い出来事が起こったことにより陥った、極めて苦しい状況を意味する表現。
「絶望の淵に突き落とされる」
「絶望の淵から這い上がる」
‥‥そんなワケで、しばらく前に、コップのふちなどに座らせたり引っかけたりするOL風の女性、「コップのフチ子さん」という小さなフィギュアが流行ったけど、もしも漢字が書くとしたら「縁子さん」ということになる。「淵子さん」だったらコップの中に落ちちゃうからだ。同じ「ふち」という言葉でも、「崖っぷち」の「縁」は「危険だけどギリギリセーフ」で、「絶望のふち」の「淵」は「もう手遅れ」なんだから、意味が大きく違うのだ。
それなのに、嗚呼それなのに、それなのに‥‥って、久しぶりに五七五の俳句調で嘆いちゃうけど、1週間ほど前の8月25日(土)の夜、NHK総合テレビで、とんでもないタイトルの番組が放送されてしまった。その名も『崖っぷちの淵子!』だ。あたしは、テレビがないので放送は観ていないけど、NHKの公式サイトで番組の解説を見てみたら、「日々「崖っぷち」と戦う女性たちに送る応援歌!」というサブタイトルが付いていて、次のように説明してあった。
「全国の働く女性たちのアンケート結果を基に“崖っぷち”エピソードを描いたドラマをメインに、“崖っぷち”のピンチをチャンスに変えた女性の転機となる「食」を紹介するグルメコーナー、街角の女性たちに聞いた“崖っぷち”エピソード&それを乗り越える人生訓などなど、バラエティーに富んだ企画コーナーも交えてお送りする30分!」
まあ、観なくてもどんな番組なのか、これだけでザックリと分かったけど、問題なのはタイトルの漢字だ。これらのサブタイトルや説明を読む限り、決してネガティブではなくポジティブな内容のように思えるのに、カンジンのタイトルが『崖っぷちの淵子!』じゃあ、もうすでに「淵」に落ちちゃってるじゃん。ギリギリでがんばっている状況を表わしたいのなら、ここは「縁子」だろう。
たぶん、「縁子」だと「えんこ」と誤読されそうだし、「フチ子」とカタカナで書くと「コップのフチ子さん」とかぶっちゃう‥‥なんていう軽い理由で「淵子」にしたんだと思うけど、この漢字を使われると、あたし的には『崖っぷちの淵子!』というよりも『絶望の淵子!』というイメージになってしまう。こんなこと、いちいちツッコミを入れるような話じゃないとは思うけど、長年、「絶望の淵」を「絶望の縁」だと思い込んでいたあたしとしては、どうしても「淵」と「縁」との混同には神経質になってしまう。
‥‥そんなワケで、たぶん小学生の時に「絶望のふち」という言葉を初めて聞いたあたしは、その前に「崖っぷち」という言葉を知っていたために、この2つの言葉がゴッチャになってしまい、それ以来、32歳か33歳の時に川上弘美さんの『いとしい』を読むまで、20年以上も間違った意味で使って来た。そして、もしも『いとしい』を読んでいなければ、40代になった今でも間違ったままだったかもしれない。そう考えると、あたしは、長いこと「崖っぷち」には立たされていたけど、何とか「絶望のふち」には落ちずに済んだと思う今日この頃なのだ。
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